信仰の現代中国

タイトルは地味だが非常に面白い本だった。

基本的にはルポタージュである。情報としては現代中国の宗教史といった学術的な内容も含まれるが、それがメインではない。主に3つの組織、2つは中国の伝統的な信仰、もう1つはプロテスタントの信仰に関わる人々の話である。

特徴的なのはその描き方で、3つの話が3人の主人公を持つ小説のように章ごとに交互に描かれていく。1つ1つの章も短編小説に近い読後感である。扱っているものが信仰ということもあり、明確な結論というものがあるわけではない。それでも心に残るものがある。

単純に宗教を巡る心温まる話というわけではない。ここは中国であるという特別な事情がある。ほんの50年前には文化大革命で全てが破壊された。その後は伝統的信仰についてはそれなりに復活したが、それでも非常にデリケートに扱われている。法輪功の弾圧も記憶に新しい。

本書で扱われている1つであるプロテスタントはまるで秘密結社のような扱いで、常に公安の監視下にある。実際に民主派との人的思想的つながりも強く、関係者が逮捕、拘禁されるのも珍しくない。それでも中国で最も伸びている宗教はプロテスタントだということである。

伝統的な宗教であってもそれは例外ではない。それは"伝統行事"や"伝統文化"であって決して"宗教"であってはならない。言うまでもなく"政治"については無関係でないといけない。その点は非常に注意深く言葉を選ばないといけない。

しかしそれでも信仰は中国の在り方の一つとして根強く残っている。特に伝統信仰においては思想よりも形式に重きが置かれる。それは思想とは切り離したものでないと現代では生き残れないという点とも関係あるかもしれない。


宗教と他の哲学や芸術や文学との違いは何だろうか。それは現代では「死を肯定できるか」という点ではないかと思っている。

もちろん宗教は自殺を勧めるわけではないし、死についてあつかった芸術や文学も多い。しかしながら本当の意味で「死の肯定」を信じることができるのは宗教しかない。その要素があればその作品は「宗教的」と呼ばれる。

科学と資本主義が全てを解決するように見えるからこそ、死の絶対性はなおさら強く感じられる。もしかすると脳をそのまま電子化できるようになり、死を克服できるかもしれないが、まだ先の話だ。中国でも日本でも欧米でもそれは変わらない。だからそれでも宗教は生き続けるだろう。